米津玄師「花に嵐」を聴いて思うこと

ヤマギシナオです。

私が米津玄師を知って好きになったのは、「アイネクライネ」で有名になり始めていた2014年、16歳の頃でした。

当時リリースされたばかりの2ndアルバム「YANKEE」を買って繰り返し繰り返し聴きました(J-POPのCDを買ったのは人生初でした)。
アルバムの中でも特に好きになったのが「花に嵐」「海と山椒魚」「しとど晴天大迷惑」です。

今日はその中で、「花に嵐」を聴いて思うことを書きます。

後悔の歌

比較的ポップなロック調のメロディに乗せて、嵐の中待合室で「あなた」を待つ様子が歌われます。

そうだあなたはこの待合室
土砂降りに濡れやってくるだろう
そのときはきっと笑顔でいようか
もう二度と忘れぬように

描かれる「あなた」の思い出は、後悔の糸がぐるぐると絡まった苦々しいものばかりです。「あなた」は嵐に揉みくちゃにされていたのに、「わたし」は手を差し伸べられなかったというような。

わたしにくれた 不細工な花
気に入らず突き返したのにな
あなたはどうして何も言わないで
ひたすらに謝るのだろう

「花に嵐」歌詞

懺悔

あなたがくれた花の色を、匂いを、全てあなたに伝えないといけない。
この嵐がいなくなる頃にあなたはやってくるはずだから、じっとここで待っている。

それが懺悔になると、「わたし」は信じている、あるいはすがっているような印象を受けます。呪われて、待合室に閉じ込められているようにも思えます。

けれど、おそらく「あなた」は来ません。

井伏鱒二が訳した「勧酒(かんしゅ)」という漢詩があります。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

別れを惜しんで杯を交わす「惜別の詩」と捉える人と、いつ別れが来るか分からないから一緒にいられる今を大切にしようという「一期一会の詩」と捉える人に分かれるそうです(参考:井伏鱒二 と 荻窪風土記 と 阿佐ヶ谷文士)。

この「勧酒」では、人生における別離を「花発多風雨」と例えています。

咲いた花は嵐によって散ってしまう。

「あなた」も、厳しい雨風にさらされて散ってしまったのではないでしょうか。

サヨナラだけが人生だ

最近、身近な人が亡くなりました。

私はあまりその人を好きにはなれませんでしたが、何百人もの教え子が社会に出ていくのを見送ってきた、偉大な人だったと思います。

結局、私たちがその人に送り出してもらえた最後の代になってしまいました。

涙はこぼれなかったし、もう一度会いたかったとか、もっと話しておけばとか、後悔は何もありませんでした。

しかし、その人が教え子の頬を触るところや、ハートランドビールを楽しそうに飲む姿を思い出すと、みぞおちの少し上のあたりに、丸くてつるんとしたものがつかえているような、小さな痛みと閉塞感を覚えます(それはその人を思ってというよりも、無理やり悲しみを生み出そうとしているだけかもしれません)。

嵐はきっと止まないので、「わたし」は待合室から出ていかなければならないのだと思います。
ずっとそこにいても、きっともちろんいいですが、「わたし」は出ていくと思います。

そして「あなた」と同じようにずぶ濡れになり、風に揺すられながら生き、散っていく花々を見つめるしか、できないと思います。

雨に落ちる椿

そんなことを思いました。

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